さて。
ふたつ前の日記で今年の「平安神宮ライブ」についてわたしはこんなことを書きました。
ああ、本当に語りたいことは多々あれど…
何を語ろうとしてもあの歌声に引き戻されてしまうくらい、今回は第一声から「歌声」に心を持っていかれたことをどうしても書いておきたいと思いました。
その後また忙しかったので、全然続きは書けていませんが、まさしくここで書いた平安神宮ライブの第一声というのは、今回の「THE FIRST TAKE」で同じアレンジで歌われた「街」の「僕が~♪」でした。
この文字数にしてたった三文字、音符三つで魂をぎゅーっと掴まれて平安神宮奉納ライブの世界観へと深く深く引きずり込まれてしまったのは、まだまだ記憶に新しいところです。
(正直未だ完全には戻って来れてない感があるほどだし、GYAO!でさらに引き戻されてしまいました、笑)
アレンジも含め、あそこで歌われた「街」があまりに素晴らしかったので、いつかもう一回聴けないかなぁ?と正直何度も思っていたのです。
その願いがこんなに早く叶うとは!!
もちろんまったく同じ条件ではないし、歌との出会いもまた一期一会。
でも、諸事情で行くことをあきらめた友人たちともこの曲について語り合えるきっかけができて、とてもうれしいです。
今回のアレンジは平安神宮の1曲目に歌われたそれと限りなく近かったので、どちらの感想にも繋がる話ですが…
「街」のピアノアレンジ、和声進行が今までとかなり異なっていましたよね?
特に2番の初っ端からのピアノの和音進行がとても不思議。
いつまでも解決しないままにゆらゆらしてて、心がざわざわと揺さぶられる感じ。
少し不安をかきたてられるような和音進行は、今の世相やコロナ禍という時代背景、そこで生まれるさまざまな心境にぴったりすぎて。
後で剛さんから今年の奉納演奏のテーマ「ネガティヴポジティヴ」を聞かされて大いに納得したことをまた思い出しました。
YouTubeに上がっているということは、これからでも何度でも聴けるし分析もできるわけで。
今結構本気でコードの勉強しているので、ちゃんと理論的なことをわかったうえでその効果など話せるようになれたらと個人的な目標も生まれました。
コード進行について書いたので、少し剛さんからは離れますが、THE FIRST TAKEでも平安さんでも、「街」の歌声を存分に引き立て、新しい魅力を添えたツインの鍵盤の音にも触れておきたいです。
十川さんとGakushiさんは、鍵盤で弾くフレーズの得意分野とか、グルーヴとか演奏スタイルなど、普段から似ている方ではないと思うのですが、それが今回、とてもいい効果を生んでいるように感じました。
そんなふたりが一人ずつ弾き継いだり、同時に弾いたりするたびに、わたしは新鮮な音の化学反応を感じ、魅力的に思えてなりませんでした。
せっかくデュオで弾くなら、ピアノ同士のトーンを合わせて弾く方が聴き手に優しい気がしてしまうけれど。
必ずしもそうではないんだなぁ。
そもそもお二人とも、歌い手剛さんの一挙一動、ブレス一つで何を求められているかがわかってしまう、いずれも熟練した達人だからというのもあると思いますが。
各々のいいところを殺すことなく、ひとつの声とふたつの鍵盤で自由に織り成す音楽は今となっては、どれひとつ欠けてもきっと物足りなくて。
3人で創りあげたからこその「絶品」でもあるのだと思いました。
そしてケリーの話に戻って…
今回これだけさまざまな人々の心を揺さぶったのは、剛さんのその表現力に負うところも多かったのだろうなぁ?とも思わされました。
最近はあまり役者のお仕事はしていないけれど、今でもプロの役者さんたちの間でも忘れられないと言われる主演作がいくつもあることを考えても…
やはりその類まれな表現力は歌う時にも存分に発揮されているのだなぁとあらためて。
それにしても…
たった1曲だけなのに、この充足感はなんだろう?とぼんやり思っていて。
浅田真央ちゃんのフリーの演技を思い出しました。
この時の演技もまた何度テレビの録画を巻き戻し、その後は動画サイトでも。
心を動かされ、湧き上がる言葉にできない感情に涙を浮かべつつ、何度味わったかわからないくらい味わいました。
今回の剛さんの「街」もなぜかどこか同じような力を持っていたように思えてならなくて。
老若男女どこの国に生まれ、今どこで何をして何を考えているかに関わらず「人」がその芸術に心打たれるメカニズムのようなもの?がとても似ている気がしたのでした。
どこが真央ちゃんを彷彿とさせたのだろう?と自分の気持ちを分析してみると…
その肝はいずれも並外れて高い「技術」と「芸術性」のバランスかも?と思いました。
自分ならではの世界観を、いかに聴き手の心に届けるか。
そのために日々、隅々まで目を配り、細やかにひとつひとつのフレーズの上にさらにニュアンスを重ねてゆくという丁寧な作業を常に惜しまず行っているからこそ。
こうやってここぞというときに、普段の積み重ねが自然と音楽に出るのだなと思ったの。
たとえば表情や歌っている姿ではちっともそうと感じさせないけれど。
半端ない肺活量が歌を絶対的に安定させていて。
息がとても長くて、しかもどこでブレスしたのかがわからないほど上手に息を継ぐ。
フレーズに合わせて自由自在な息の使い方をしていて。
何より吐息はとても効果的に歌声を彩ってちゃんと聞こえるのに。
水の蓋を開けたり鼻をすする音まで拾うあの高性能のマイクの下、ブレスがまったく聞こえてこないのって本当に凄いなぁと思うし。
腹式呼吸で腹筋をしっかりと使って歌声のコントロールをしてて。
こういうのはたゆみない日ごろの鍛錬の賜物に違いないし。
音響障害に悩まされつつも、ここぞという時のびっくりするほど正確なピッチには心底驚かされました。
主に一般の方々や海外からの感想の中に意外なほどたくさん「低音域」が素晴らしいというのがあったけれど、彼の1枚目のソロオリジナルアルバム。2002年8月に発売された『ROSSO E AZZURRO』の頃のご本人は、低音にどちらかと言えばコンプレックスを抱いている風だったことを思い出します。
いつの間にこの人の低音はこんなに聴く人の心を惹きつけるようになってたんだっけ?と想像以上の反響を見て心底びっくりしたのだけれど。
(多分ファンはずっと聴いているので、どの時点で?…とかいうのがわからなくなっている、笑)
それこそきっと、この低音の魅力が炸裂したのは、絶対的に努力の賜物でしょうし。
そういうの全部ひっくるめて、ここまで持ってくるのにどれだけの努力をしたのだろう?というのを外に一切感じさせない強さ。
そんなむずかしいことを色々とやっているのに、佇まいは楚々として、とても自然体に見えること。
本当に隅々まで凄いです。
「自担カッコイイ!」と生徒がよく言っているのだけれど(笑)
ああ、こういう時に言うんだなとちょっとその使い方のコツがわかったかも(笑)
また、口はあまり開いていないけれど、口の中、喉の奥の方はとても開いてよく響かせていて、その歌声の音色はやはり手入れの行き届いた木管楽器のようだったし。
細やかで抑制の効いたビブラートやフェイク。
そして1曲を通して「こんな風に歌いたい」という設計図がちゃんとできていて。
思いのままに歌っているようで、最初すごくストイックに始まって、ここぞという聴かせ所へのクレッシェンドもとても計算されていて。
芯のところの剛さんはとても冷静でいわゆる「全集中」でいたんだろうな!と。
そんな風に思いました。
そんなところも含め、とても一発録りのクオリティーとは思えない!!と思いました。
何度目かにリピートした時に、隣にアネがいて。
彼女もまたメニエールの持病があって、時にとても聴きづらい時があるそうなのですが。
そんなアネが剛さんの歌を聴いて素晴らしかったと感動しつつ。
ファンな母に遠慮がちに、ちょっとためらいつつ
「最初の方の低音のところ、若干歌い辛そうで、かすかな音程の揺れっていうか探るような瞬間があったの気づいた?」と言ったのです。
実はわたしもちょっとそんな気がしていたので、そのように伝えると…
難聴がある人にとっては、いきなりそれまでと違う環境の中で音を聞こうとすると、耳が慣れてくるまで相当聴きづらいんだと思う。わたしもそうだから…
なんて言ってました。
アネの場合、緊張してしまうとさらに音が聞きづらくなる感じがあるそうで。
そういえば剛さんもなるべくリラックスや身体の脱力に努めているのが伺える時があります。
少しライブの本番前に眠るというのもいい意味で力を抜く意味があるかもだし、今回のように何気ない感じで入ってきて、普通に水を一口飲んでの歌い出しというのも。
そういう側面もあるのかも?と思いました。
(個人的な感想ですが…。)
そういう歌う時のルーティーンや歌う前のリラックスを含め、長年に渡りまだまだ「歌う」ということをストイックに探求し続けていて。
この曲「街」が生まれた頃からさらにさらに進化した「街」が今回聴けたことはファンとしてもこの上なく幸せなことだとあらためてそう思いました。
実際、一日経ち二日経ちするうちにアクセスはどんどん増え、気づけば200万を超え、さらにどんどん増えてます。
Twitterでも初日はファンのつぶやきが圧倒的に多かったですが、日を追うごとに一般の方々の感想が増えてきているのを肌で感じます。
この「街」という曲はドラマ「夢のカリフォルニア」の主題歌だった頃から、さまざまな場面で何度聴いてきたかわからない剛さんの代表曲の一つで。
いつも同じ気持ちを呼び覚まされるわけではなくて。
何度も新しいアレンジや歌われるBPMも変えながら歌われ、さまざまな場面でさまざまな感情を呼び覚まされながら聴いてきている不思議な曲です。
発売当初は奈良から出てきた傷つきやすい少年の未来の幸せをひたすらに願ったし。
東大寺では「この身体まだ行けるさ」からのところが、剛さんの当時の病状や漏れ伝わってくる心境とあいまって、これでもかと刺さって、ひたすらに剛さんの気持ちになって(つもりだけ)聴いたし。
KinKi Kidsな現場で歌われた奇跡のような時間は、うっすらと絡まっていた「何か」が優しくふわふわとほどけていくかのようにも感じたし。
その時々、わりと深く考えさせられる曲なのですが。
今回のTHE FIRST TAKEでは、さまざまな人が「自分の今の心模様にぴったりだ」と感じたり、寄り添ってもらったと感じて泣いたという方達も多数いて。
またこの曲の歴史にあらたな一ページが加わったような気がしました。
そしてそしてもうひとつ。
彼の歌う声の「音色」そのものに、どこか郷愁とか哀愁とか、情緒が呼び覚まされるスイッチのような何かがあって。
わたしが平安神宮で「僕が~♪」の3つの音符ですでに鷲掴みされたのも、声の音色の魅力に説明のつかない情緒が一瞬にして刺激されたのだと思われます。
きっと彼の歌声の最大の魅力の一つにこの「説明のつかない情緒を動かす何かプラスα」があるのだと思うということをちゃんと書いておきたいと思いました。
この感覚はいつも雅楽の楽器の笙とかクラリネットやオーボエとか、そんなぬくもりのある楽器の音色を思い出させます。
そして。
私自身はTHE FIRST TAKEを聴きながら、こんな風に感じてました。
今回の「街」は今までよりも、もっとずっと大きな世界観を歌った歌に聴こえたのです。
「この身体まだ行けるさ。ゲームはまだ終わっちゃいないさ。」
は、あの瞬間強いて言うなら現在の世界中の人達へのエールのように思えたのでした。
コロナや戦争や自然災害や…次々と襲いかかってくるさまざまに立ち向かう人間に「大丈夫、まだ行ける」とやさしく励ましているようにも聴こえたし。
さらに考えるなら、人間のエゴで痛めつけられてばかりの母なる地球に…
「ゲームはまだ終わっちゃいないさ!!」とエールを送ったようなそんな気さえしたのでした。
考えてみれば「嘘にぶたれる音は好きじゃないや」にも。
「愛を見失ってしまう時代さ」にも。
「痛みまでも見失いたくない」にも…
強烈に世相が反映されているような感じさえします。
あれれ?これ、本当に20年前の歌でしたよね?…
そんな風に、すごく大きなことをも考えながら聴いてました。
というか、わたしにとってはそんな風に聴こえたけれど、さまざまな方の感想を読んでいると、自分の苦しみに寄り添ってもらったように感じている方々もたくさんいて。
いろんな立場のファンやファンじゃない方々も。
日本人も外国の言葉さえわからない方々にも…
さまざまな刺さり方をしていることに心底驚かされました。
そんな風に人の心の琴線に触れる素敵な歌声だったということなのでしょうね。
天国のメリーさん、見ていらっしゃるかなぁ。
この曲を剛さんが作った時のメリーさんのリアクションのこと。
亡くなられる直前にミュージックフェアの「I LOVE YOU」を聴いてとても感動されて「泣いちゃったわよ」とわざわざ剛さんに伝えられたメリーさん。
こんなにもこの曲は男性にも女性にも愛されて、ついに海を越えて世界にも出て行きたくさんの感動を与えてますよ~
剛さんにとっても大切な師の一人メリーさんが、天国でジャニーさんと共に微笑むのが見えるような気がしつつ…
まだまだリピートな日々は続くのだろうなと思います。
なんだか久々に心のままに大量に書いてしまいました。
明日の朝起きたら恥ずかしくなってるかも。
本当に細々と書いていますが、書くたびにあちらこちらから反応をくださるみなさまには心からの感謝を伝えたいです。
いつも本当にありがとうございます♡