ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

剛さんとバラードと。

剛さんが福島のMCで

「バラードがへたになっちゃったから」

と言いました。

衝撃の一言です。

こんな言葉をこの人の口から聞く日が来るなんて…と心がギュッとなりながら。

全然下手になってなんかいないのに…とさみしい気持ちになって。

自分が言われてしまったかのように、シュンとしながら聞いてました。

「喉」という名の、弦楽器にたとえるならストラドにも負けないくらいの名器を生まれ持ち。

その喉を最大限に生かせる技術も表現力も持ち合わせ、さらに培ってきて。

どんな曲にだって魂を憑依させて、たちまち聴き手の心を深く揺さぶってしまう。

のみならず、才能にちっとも胡坐をかかず、日々の努力も欠かさない人。

そんな人が不運にも大切な片耳の聴力が突然落ちるトラブルに見舞われて。

未だ後遺症との闘いは続く中、モチベーションをどうにか保ち続けながら、さらなる度努力を重ねつつ、第一線で活躍してる。

そんな中でも…ですよ。

聴きました?

少し前のミュージックフェアでメリーさんをも唸らせ泣かせた「I LOVE YOU」を!!

最近新たに歌い直されてあげられたインスタの「ソメイヨシノ」を!!!

今ツアーの「愛のひと」の伸びやかさを!!

またまた進化を遂げた「街」を!!

これだけの日を跨いで来たのだから」を!!!

そんなこんな、次々と近年の宝もののような歌声の数々が思い出されて。

「いやいや下手になんてなってない。」

「むしろ試行錯誤を繰り返した剛さんの歌はずっと巧くなったと思ってるよ。」

とステージに向かってテレパシーを投げてました(笑)

ご本人の悩み、実際問題としてその困難さゆえ、絶望が深いのは容易に想像がつきますが…

断言できます。

現状は絶対に「上手い下手」の問題じゃないよ。

その瞬間

「聞こえるか聞こえないか」

「音を捕まえられるかられないか」

それだけなんじゃないかなぁ…とわたしは歌を聴くたび思ってます。

さて。

剛さんのその時のMCを、もう少しだけ追います。

「バラードを歌うのが下手になっちゃったから、みんなの前でバラードを歌うのもな…という恐怖もあったんです。」

「一番せつないのは、歌っていて(自分で)音が合っているのかどうかわからなくなること。」

そうも言っていて。

今日はあまり上手に歌えなかった?と終演後スタッフに聞いてみると

「全然歌えてましたよ!大丈夫です。」

と言われるし、実際に映像で確認してみると本当に大丈夫だったのだとはじめてわかることもあるそうです。

(元々あんなに音楽を聴き分けることができるいい耳を持った人なのに…なんてせつない話なんだ、涙)
後遺症のひとつに「誤聴」というのがあって。

自分の感覚(だけ)で音程を判断するのは困難だから。

工夫を重ねているうちに「口の開き方」や「鼻腔の状態」「アゴの角度」や「喉の開き具合」等で「この辺りの音程が出ている」というのがある程度わかるようになったと話してました。

この話は以前にラジオでも言ってましたね。

わたしも音大受験でお世話になった声楽家の先生や、大学の声楽の授業で、断片的にそういう話を聞いたことがあります。

音程というものは本当に繊細なものだから、身体のどの器官をどう使った時にどんな声になるか、日ごろからよ~く自分で観察して、よ~く覚えておきなさい…

そんな風に言われたこともありました。

声楽の先生がおっしゃっていたことは、きっと今の剛さんが自然とやっていることと遠からずなんじゃないかな?と思います。

(理解したということと実践できるということはまた別の話だから、わたしにはちっともできないですが、笑)

そんなわけで剛さんが血の滲むような試行錯誤の中で

「身体の器官を上手く使うことで、より音程や声の響きなどの揺れがコントロールできる…」

という境地に至ったとしたら、それはとんでもなく凄いこと。

その途上でひとりでどれほどの試行錯誤と工夫を重ね、

うまくゆく日も期待通りとはいかない日も何度も何度も通りつつ、

やっとそれをファンに向けて口にできる日まで辿り着いたのだろうと思うのです。

ああ、語彙力が足りなくてうまく言えないけれど。

伝えたいんだ!どうしても…

さて。

またご本人談に戻ります。

「へたになっちゃった」と言った後、同じ剛さんが

「今回はセットリストにバラードを多めに入れました。」

と言いました。

「セットリストに入れてしまえば、もう歌わないわけにはいかないから。」

とも言っていて。

字面だけでは一見ネガティヴに、自虐的に放たれた言葉のように見えるかもですが。

全然そんなことはなくて。

そのあと「前を向いていきたいからね。」とも言っていて。

そんな状態でステージで歌うのは怖くもあるだろうし、心配も多々あるだろうに、なんて清々しくまっすぐに語るんだという感動を覚えました。

ああ、この人はいつもそう。

そうやってたゆまぬ努力を怠らず、あきらめず。

そしてひとつずつ、確実に階段を上ってゆく。

その言葉たちは清々しいほど前向きで、静かな決意に満ちているように見えました。

いよいよ「歌う」という彼にとっての芯の部分に自ら焦点を当て。

真正面から向き合うと宣言する時が来たんだなぁ。

この日、福島でこのお話が聞けたことは、きっと忘れないと思います。

そういえばそういえば。

今回のセットリストでは、かなり後半のBelieve in intuitionまで剛さんは一切楽器を持っていません。

ギターやベースの腕も年々すごく上がっていて、しかもちゃんと堂本剛印がついていて。

彼じゃなきゃ思いつかないような魅力的なフレーズや音色もたくさんあって。

その音は間違いなく今ではバンドサウンドの「要」の一つにもなっていると思うし。

何よりあの魅惑のビックバンドの中で、自分も楽器で音を重ねることはとても楽しいことでしょうから…

思いきって楽器を置いて歌に徹するというのは、なかなかな決断だったと思うのです。

そんな中、今回は2回のMCを挟んで尚、楽器を持たず歌うことに徹してて。

実際ライブ後も今回は圧倒的に歌声の印象が強くて、翌朝も歌声とともに目が覚めて、ずっと頭の中で歌声が鳴ってました。

一度は、あの歌声を聴けなくなってしまうかも?というとてつもない恐怖にさいなまれたのはファンもまた一緒で。

その胸の奥底までぎゅーっと絞り上げられるような感覚が未だに忘れられない中。

自らの努力であそこまで自らの歌を取り戻してきて。

あんなに惜しげもなく畳みかけるように、何曲も聴かせてもらえる幸せ。

彼の「歌声」という楽器は、ご本人にとってはもちろん、ファンにとってもかけがえのない宝ものだと再確認された方も多かったのではないかしら。

歌ものが増えて来たな…というのは、昨年のライブツアーでもすでに薄々気づいていて。

平安神宮ライブのセトリだけ見た時にも「歌の印象が強いな!!」と思ってましたが

今年のツアーで、さらにその傾向が強くなったように感じました。

ここまで歌うことに徹するのは、ほぼ20年のソロワークの歴史のなかでも相当珍しいことなのでは?と感じていたのですが、その理由が今、明かされたような気がしました。

かつて、tankが始まってややしばらく、インストやギターやベースを全面に押し出した曲、セッションの量がどんどん増えていった時期があって。

個人的な感想ですが、ソロの現場では「とはいえ歌ってこその堂本剛でしょ?」と思われるのはあまりうれしくないかも?と感じていた時期がありました。

本当のところがどうだったのかはご本人しかわからないけれど。

並行してファンもまたFUNKにどんどん嵌り、さまざまな魅力に気がついて。

「歌もの」の量にもそんなにこだわらなくなったし。

彼の音楽のそのものの魅力の幅もどんどん広がって、何が何でもバラードがなければ…とも思わなくなったこの頃だったので。

どうぞ無理なく、ご本人が楽しみながらできることをじっくりとやってもらえれば、ファンも十分にしあわせなんだからという気持ちになっていていたような気もします。

でもでもでも。

別日に参加した友人談によると

剛さんも自分の声域は「バラード」に合っているようにも感じていて。

自分にとってバラードもまた、とても大切な表現手段の一つだと語っていたと教えてもらいました。

友だちづてにですが、その言葉が聞けて。

何よりご本人が「バラードも歌いたいと思っている」のだと知れたことは、とてもうれしいことでした。

思えば耳を患った直後の年は、ライブハウスからスタート。

注意深く身体と相談しつつ、年末のドームを睨みつつ、だんだんに大きな箱にトライしているのかな?と思っていたなぁと思い出します。

その年はご本人の想いの通りにはいかず、ストップがかかって東大寺での涙になったことはまだ記憶にも新しいところですが…

その後もたゆまぬ努力は続き…

楽器を弾きながら歌えるようになって。

踊りながら歌う姿を見せてもらえて。

いつもいつも本当にいつも、前向きな努力を続ける剛さんの凄さにはただただ驚嘆し、感服するしかなくて。

同時にその陰での苦労は筆舌尽くしがたいものがあるのだろうと容易に想像できて。

どうぞ身体も大切に…と祈るような気持ちになったりもして。

複雑極まりない気持ちで喜んだり心配しているファンをよそに

剛さんはひとつ、またひとつと、できることからより高い目標へと取り組んでは乗り越えていって。

とうとう満を持して、本気でバラードと向き合う決意を定めたのだなぁと。

感慨深くそう思いました。

初日、一緒に入ったオットが

「剛くん、CDでは申し分のない歌声を聴かせてるけど、やっぱり後遺症と相当格闘してるんだね。それが久々にライブを見てちょっとわかってしまった。」

と言いました。

わたしは昨年も参加しましたが、オットにとってはコロナ禍になってはじめての生ライブだったので、わたしよりもさらにいろいろと思うところがあったようでした。

いえいえ。

一般的なプロの歌手としては全然問題のないレベルのごくごくわずかな違和感ですが、たとえばBlue Berryの音程的難所とか、多くの楽器が重なるとき、少しだけ音程を探るような瞬間もあって。

音というよりは、むしろ歌っている本人の迷いや緊張を、オットは久々に観たからこそ敏感に感じ取ったのだと思います。

それが翌日の夜の部に入った後

「びっくりするほど修正されてるね!!」「今日の歌声は神がかりに凄かった!」

とまたもやオットが歌に言及し、大興奮で話してて。

わたしも同じことを思ったので、やっぱり!!と夫婦で会話しました。

たゆまぬ努力は、ファンが大興奮で喜んでいる間にも、きのうも今日も、やっぱり日々、ずっと続いているのだなぁと実感した出来事でした。

そして福島です。

福島のホールは噂にたがわず音響が最高で。

楽器の音も歌声も、本当にクリアーに聴こえたのですが。

一旦歌い始めてしまったら、さっきまでの哀しみやモヤモヤ、心配はどこへやら。

歌の世界観に丸ごと引きずり込まれて息をするのも忘れて聴き入ってしまいました。

あのホールでは、歌声はマイクというものの存在を忘れてしまうほど、とても自然にありのままの美しさで響いてきます。

だからこそ、誤魔化せないとも言えるのですが、まんまの声が一番美しいと心から思った剛さんの歌声でした。

レガートにせよ、ブレスにしろ、ロングトーンにせよフェイクやファルセットにせよ。元々持っていた能力がこのところの日々の努力でさらに磨きがかかったなぁと思いました。

そうそう。

バラードではないですが、Blue Berryについて。

この曲は、音程が激しく上下していて、耳のことがあって初めて、実は本当に難しい曲だったんだなぁと気づきました。

剛さんが発売当初から、あまりにやすやすと歌っていたので、難しい曲だと全然気づいていなかったのだと思います。

久々のアリーナで演奏された「NARALIEN」のツアー初日では、メロディーを少しアレンジして歌っていて、同じ年のサマソニでもやっぱりそうだったことを覚えています。

それが、元のバージョンに戻されたのは、コロナ禍での配信の時だったと記憶しています。

この部分に関してだって自分の歌なのだし、後遺症が落ち着くまで少しでも歌いやすいアレンジで歌ったって全然いいのに。

それを良しとせず、やっぱり元に戻そうとひそかに努力していたんだなと思いました。

神奈川に参加された友人から、やっぱり少し歌い辛そうだったとも聞いていたのですが。

音響がとてもいい福島で、ちょっとした発見をして。

歌が入る瞬間、剛さんの耳が正しい音を捉えるのを邪魔しないように、すーっと自然にバックで鳴っている音が薄くなったのがはっきりとわかったように思いました。

メロディーパートがその周辺でコーラスを含む歌声だけになったり、リズムを見失うことがないように、リズム隊はくっきり際立たせたり。

工夫の跡がよくわかったような気がしました。

「こういうのをやってみたいんだよね!」と剛さんがひとこと言うだけで、なんでもすぐにできてしまう凄腕のミュージシャンに囲まれて、日々、試行錯誤はまだまだ続いていて、まだまだ続いてゆくのだと思いました。

自分の今の状態を過大評価することも、過小評価することもなく。

忠実に現状を気持ちごと伝えてくれる我らが推しの誠実さよ。

20周年間近。

きっとこの努力が報われて、世界へと彼の音楽が広くあまねく広がっていく日は近いんじゃないかな。

心から楽しみにしたいと思います。

なんだかダラダラと語ってしまいました。

演奏能力も音楽性もまったく及ばない裾野の方で30年以上音楽を仕事にしてますけど。

仕事柄、音楽を聴き分ける力はそれなりに持っていると思ってて。

どうしても言っておきたいと思ったので、書きました。

「だってちっとも下手になんかなってないんだも~ん!!」

と、言いたいだけの日記でした(笑)

またゆっくりと全体に関しては触れたいですが、とりあえず福島のホールの画像を貼ったインスタをお裾分けしておきます。

 
 
 
 
 
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