ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

 縁を結いて その3 ゼロのクリエーション

今回の新曲『縁を結いて』をはじめて聴いたとき、最近マイブームだった「日本の歌」ととても近いイメージを持ちました。
「おぼろ月夜」「雪の降る街を」「ふるさと」「赤とんぼ」「冬げしき」「小さい秋みつけた」
これらはずっと歌い継がれてきた日本の歌たちですが、半年前にたまたまレッスン室で伴奏譜を発掘して以来(笑)なぜだか頻繁にレッスンの終わりに登場して生徒たちと歌い味わってきました。
こういう曲たちには共通する特徴があって、詞はあまり感情過多にはできていません。
それでありながら、聴いたり歌ったりしていると様々な感情が浮かんできます。なつかしい景色や子どもの頃の記憶、色や触感があざやかに蘇ります。
「赤とんぼ」の世界など、わたしの世代でも体験していないエピソードや景色が歌われていますが、見てきたかのように体験したかのように感動したり、チクっと心が痛んだりしますします。日本人の心の中にはこういう感性がDNAとして組み込まれてるのかしら?なんてちょっと大げさに思ってみたりして(笑)
いずれにしても、こういう曲の数々に触れると「ああ日本人だなあ」と強烈に意識します。そもそも発掘された楽譜はマレーシアに住んでいた頃に海外赴任の先輩から譲っていただきました。
中にいるときはわからなかったのですが、一歩日本の外に出てみると、日本という国や日本人の素敵さが身に沁みます。
「歌」にもいながらにして日本を客観的に外から見せる力があるのかも。
これらの曲たちを聴いたり歌ったりした時の感想と、『縁を結いて』に抱いた感想がとても共通点が多いように思えてならず、そこから書いてみようと思いました。
おぼろ月夜には「春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて においあわし」という詞があって、
「冬げしき」には「さぎり消ゆる 港江の 船に白し 朝のしも」とか「からす鳴きて 木に高く 人は畑に 麦をふむ」という歌詞があります。
情景が鮮やかに浮かんできて、そしてそこに流れる日本人の情感。
「小さい秋みつけた」にも「ふるさと」も淡々と景色を描写しながら強烈なイメージを伝えてきます。
そして、これらの曲をレッスンで使ってみたら、意外にも子どもたちもこれらの歌がとても好きでした。
今教科書の大半を占めている曲たちと比べて、使っている言葉が古語だったりむずかしい表現があったりして、こういうのはちょっと馴染めない?と思ったのですが、なかなかどうして、ちゃんとついてきて「また歌いたい。」「大好き。」という子どもたち。
多分伝わるということには「理解する」という側面以外に「感じ取る」とか「想像力を刺激される」とかそういう要素もあるのでしょう。
じゃあ、もうちょっと子どもたちの世界により近い新しい曲の中に、こういう感覚を抱けるものはないかな?と探してみると意外とないというのも現実で、最近の曲はもうちょっと親切で一目瞭然ですが、古い歌を歌いこんだ感覚でのぞむと、なんだかちょっと物足りない気持ちになるものが多いです。
読み解く必要もないし、間違う心配はないので安心ですが、ちょっと残念。
さて、本題です。
つよしさんがこの曲ができた経緯を語るのを聞くと、
おかあさまがただただ「キレイやなぁ」と涙を流し発したそのひとことがきっかけになった歌が生まれたそうです。
どこでもそんな話をしていますが、そのエピソードは直接歌には関わってきません。
お気に入りの天河神社で見せてもらった弁財天さん、同じものを見て隣で静かに心を動かされている家族。それを感じた時、彼自身の感性も「スイッチが入った」という感じだったのかも?と想像しました。
そうしてできたこの曲は、誰にでも馴染みやすいメロディーおよびコード進行で、クセのほとんどないまっすぐな歌唱が、その時に彼が抱いた気持ちをまっすぐに切り取ったのものかも?と思わせるし、それを聴く人の郷愁とか奥底にしまわれた感情の「スイッチ」もまた刺激され、押されるような気がします。
最近の日本の歌や詞の世界には説明的だったり親切すぎるものが多いから、逆に言えば共感や感情移入の幅も限られてしまうのかも。
まさしく「心の色はそれぞれでいい」という自由な感じがこの曲がとても素敵に見える一因のような気がします。
言葉にできない、あるいはしたくない感情。想像の余地がある幅のある感情。
ただただ沸きあがる気持ちを歌にこめて、感じたままをあらわすすべとしての歌、音楽。
そういうのがゼロのクリエーションということなのかしら?と想像しています。
どこかの雑誌の中で「うまく歌おう、ここで歌えばきっといい結果が出せるのでは?と思った瞬間に、ゼロではない、なんだか違うものになってしまう。」というようなことを言っていたのが印象的だったのですが、そういう感じ、ピアノを演奏していてもよく体感します。
「子どもの感性に訴えるいい演奏をしてやろう」とか「凄さを見せつけて屈服させたい(たとえばですよ!たとえば、笑)」なんて思ったら途端につまらない演奏になってしまいます。
まったく何の意識もなく、誰にも聞かせようとは思っておらず、心がたまたますいと音楽に向かった時に「なんか今の凄かった!?…かも?」なんて瞬間が訪れたりもしますが、いまだにちっとも計算通りにはいきません(笑)そういうのこそがゼロなのかなぁ?なんて思ったり。
大サビの部分だけは少しだけ色合いが違って、多分に読み説きたくなる興味深い要素がたくさんありますが、そこ以外の部分はただただ感じるままに古都のくにを、美しい日本を、イメージの中で旅すればいい…のかも!?
「赤咲いて」「極み」「十二色と ひと色あたし」「風詩雨」
相変わらず彼が詞の中で使う日本語の言葉がとても素敵だなあと思います。
この曲を流しながら無心に歩いたり、うとうとしながらエンドレスで聴くのも好きです。今回のこの曲はそういう聴き方もありな気がします。
時節柄心がいがいがしたり、やり場のない怒りに震えたり、やるせない気持ちになることも多いですが、この曲を聴いていると前向きな気持ちが呼び起こされる気がします。
ずいぶん前にすでに出来上がっていた曲らしいですが、神さまがこの曲が必要な人たちのために、絶妙なタイミングを選んでリリースに向けて背中を押してくれたのかも!?…と思っています。
「溢れだした〜」からのフレーズ、その圧倒的な表現ったらどうでしょう。繊細でやさしいけれど力強く心強い。
長く長く大切に聴けたらと思っています。