ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

 阿修羅展 続き

 ちょっと前に友達に教えていただいて芸術新潮という雑誌を買っておいたのですが、帰ってきてから今さらのようにこれをじっくりと眺めています。(行く前に見ればよかったのに〜、笑)
 相当な混雑の中入ったわけですが、ものすごい混雑をしていたのは開場とほぼ同時というタイミングだったからで、最初の方と阿修羅さまのまわり以外は結構じっくりゆっくりと眺めることができました。
 一緒に見てまわったのは、この間日記のトラックバックさせていただいた、お友達のbonyarihitsujiさんです。
 彼女とは「好奇心友達」で、南国居住経験友達で(なんてアバウトな表現でしょ!)もちろんKinKi友達でケリー友達でもあります。
 そして、なんといっても昨年の秋に一緒に奈良を旅行してきた仲間です。
 さて、解説をじっくり聞きたかったので音声ガイドを借りたら、ナレーションが黒木瞳さんでびっくりしました。落ち着いたいい声でした。
 わたしたちが最初にとても食いついたポイントは華原磬で、どういうものかはリンク先に飛んでいただくとして、鐘というか太鼓というか、楽器の一種と書いてありますが、音声ガイドでは金鼓(こんく)と呼ばれていたと思います。家に帰ってから「コンクって!?」と思って字を調べて納得。金色の太鼓なのですね。
 音声ガイドを聞きながらこの華原磬を見ていたら、実際にこれをバチで叩く音が入っていて、これがなんともいえないいい音でそれはそれは心を動かされました。
 音もさることながら、もっと気になったのがその形で、太鼓部分の上に龍が絡まっていて、この形を見て食いつかないわたしたちであるわけもなく(笑)後にランチを食べながらしばらく華原磬トークに花を咲かせました。
 後でなんて言ってたんだっけな〜!?と気になって音声ガイドについて調べていたら、こんなサイトを見つけて、そこに

その経典には、波羅門(ばらもん)が現れて、ばちで金の鼓(華原磬)を鳴らすと、その響きが懺悔を説く教えのように聞こえた、と書かれています。

と書いてあり印象的でした。
それからそのあたりでもうひとつ食いついたのが「和同開珎」で、社会の教科書では散々出てきた古代のお金ですが、これを実際に間近に見れる機会があるとはなんだか感慨深かったです。和同開珎は思ったよりも全然薄っぺらでした。なんだかずっと昔のお金というと、どうしても大きくて雑なつくりを想像してしまうのですが、意外と繊細なことに驚きました。
 その他にも水晶の念珠とか翡翠とか、いろいろな玉がありましたが、これらも繊細で小さいつくりでした。
 阿修羅像以外の八部衆のあたりは比較的人がばらけていたので、ゆっくりと見て回ることができたのですが、友達が一番好きな仏像は鳥の顔を持つ迦楼羅(かるら)で、わたしが好きなのは、沙羯羅(さから)や五部浄(ごぶじょう)。というわけでそのあたりはじっくりと見ました。
 迦楼羅(かるら)の原型はインドの神話の中に登場するガルーダという鳥頭人身の神様で、口から火を吐き龍(蛇)を食すると言われているのだそうです。
 ガルーダといえば、ずっと昔にお世話になった「ガルーダ航空」そっか!なんてことを思いだしてみたり。わたしはこの仏像の鋭い眼光と瞳に宿るやさしさが好きです。
 わたしが行く前からそのお顔が好きで(すいません、そんなんで、笑)気になっていた沙羯羅(さから)は水中の竜宮に住んでいて雨を呼ぶ魔力を持つらしいです!
 この方は竜王に当たるとも言われているのですが、八部衆の中に龍を食するとされる迦楼羅(かるら)と竜王に当たるという沙羯羅(さから)が一緒に並んでいるのがなんだかすごいです。
 もちろんお気づきだと思いますが(笑)そもそもわたしが直観的になぜか心惹かれたり好きだと思うものには、様々な共通点があるのですよね(笑)
 共通点と言えば、八部衆とともに展示されていた十大弟子像の中では、昨年初めて興福寺を訪れた時からとても須菩提さまに心惹かれていて、この穏やかでやさしいお顔をずっと眺めていたいと思ってしまうのですが、家に帰ってから「芸術新潮」をもう一度繰っていたら、わたしが好きな方々はみんな「ベビーフェイス」だとか「坊ちゃん風」とか表現されていて、どうやらまだ大人になりきれていない、どこか未成熟で悩み多き少年系のお顔をした仏さまに心惹かれるわたしであるらしいです(笑)
 阿修羅像も含め八部衆像は、みんなどこか憂いを含んでいて、繊細なお顔をしています。その辺りがもっと時代が新しいものや他のお寺で見た堂々として隙のない仏像たちとはちょっと違います。
 この仏像たちを造らせたのは光明皇后だそうですが、この方は激動の時代の中で、飢饉や天変地異もたくさんあって民が苦しんでいるというのに、自らは時の権力争いに巻き込まれて、血みどろの戦いを繰り広げており、そのようなご経験から、「懺悔」の教えにすがろうとなさったのだとか。
 その方の命によりつくられたこれらの像は釈迦を守るという本来の役割のほかに「懺悔の手本を示すような役割を担っているのではないか」と書かれていたのは、確か雑誌「一個人」だったかしら!?(なんだかいっぱい雑誌やらテレビやら見過ぎて記憶が混濁してます。にわか知識で的外れなことを言っているかも!?ですが、まだ勉強途上ということでお許しいただければと思います)
 確かに阿修羅や八部衆の顔には戸惑い思いつめたような表情を浮かべ憂いを含んでいて「懺悔」の気持ちがお顔に現れているのかも!?とちょっと納得しました。
 そういえば、ワンダー×ワンダーというBSの番組の中で、顔学の先生の説が紹介されていて、これが説得力があってとても心に残ったので紹介します。
 よく見ると阿修羅像の三つのお顔の中のひとつは唇をかみしめています。これは自らの過ちを認めることができない感情をむきだしにした反抗的な姿なのだとも言われているのだそうです。そしてもうひとつ横のお顔があやまちに気づき悩み始めた思春期の顔、そしてわたしたちが一番よく知っている正面のお顔はある程度成長して罪を悔いあらため、悩みから抜け出そうとする青年の姿。
 要はひとりの青年がだんだんに成長していく様子をひとつの像の中であらわしたのではないか!?というのです。
 また、先生は阿修羅の6本の腕にも注目されていて、両手を高く掲げる2本、腕を下ろす2本は、合掌する2本がだんだん悟りを開いていく過程とも思えるとおっしゃってました。
 そういう説などをいろいろと知った上で阿修羅展を見てみると、いろいろな発見があったり自分なりの解釈が生まれたりして、とても面白いです。昨年の「薬師寺展」の時は、何も知らずにただただ眺めることに終始していたのですが、今思えばもったいないことをしたかもです。 
 また、そういう話とは全然別の次元の話ですが、この像たちがとても繊細な表情を綺麗に再現しているのは実は、この仏像が作られ方がほかのもっと新しい時代の仏像たちとは違うのだということも知りました。
 この仏像たちは、最初粘土で形を作ってから、麻布をかけて漆で固め、中の粘土を除いてしまうので、中身は空洞で(びっくりです!)その空洞部分に心木を入れて強化してあるのだそうです。
 その後で色や繊細な表情を作っていくのですが、テレビでその作り方を再現しているのを見たところによると、漆と木の屑を混ぜた材質で何度も重ね塗りしながら丁寧に繊細なお顔を作り上げていました。あの細かい繊細なお顔の表情の秘密はこれだったのです。
 また、この軽さが幸いしてたびたび起こる火事の際にも楽に運び出すことができて、今でもちゃんと焼失せずに残っているのだそうです。なるほど〜
 そんなテレビを見てから行ったので、その仏像たちの小ささや繊細さが余計に際立って見えて、とても面白かったです。
 「阿修羅展」とはいえ、肝心な阿修羅さまのコーナーはあまりの行列と押し掛ける人、ひと、人であまりよく見えなかったのが残念でしたが、それでもその小ささや細工の細かさ、後ろ姿まできちんと手を抜かずつくられているのがよくわかってとても面白かったです。
 このコーナーを抜けると、第三部として再建の計画がある中金堂の中に収められる仏像たちを見ることができるのですが、こちらは鎌倉時代に作り直されたものなので、それこそお顔が全然違うし、もっとダイナミックで堂々とした仏像群がみられます。
 でも、個人的に言うと、やっぱり繊細で悩み深き奈良時代の作品群に大きく心惹かれて帰ってきました。
 実はあと1回分チケットを持っているので、もう一度もっとちゃんと見てきたいと思っています。
 さて、おみやげとして購入したのがこれ。

 鹿がかわいいので即決でした(笑)このほかにはハガキやクリアファイルを購入しました。
残念ながらフィギュアは売り切れらしいです。残念!
 会場から出た時間が11時ちょっとすぎだったので、前の週に行った友達に勧められていた、アトレ内のスペイン料理のお店に行きました。
 ここからの話とちょっとマニアな見方をしている「よこしまバージョン」の仏像話は(笑)別途「番外編」として書きたいなあと思っています。
 ホントはごっちゃにして書いても面白いだろうなあと思ったのですが、わたしの日記は高校の時の先生とか家族とか山口時代の友達や高校大学時代の友人とか、そういう方も普通に読んでくださっているものですから(笑)今日のところはマニアックギリギリの内容ということで(笑)