ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

恋愛体質なので。

ウソです(笑)
たまたま大好きなブロガーさんNさんが、少し前に「恋愛体質じゃないので」というタイトルで更新してらして、心に残ったので、わたしは逆のこのタイトルで書いてみようと思いました(笑)
わたし自身の現実は決して恋愛体質というようなくくりにはならないはず(笑)
でも、誰かの恋愛(現実に限らずマンガでもいいし、ドラマでも本でも)やドラマに感情移入してドキドキするのは大好きです。
これはまた「好きな表現」に出会った時にも同じように感じるドキドキで、たとえば身近なところでは小さい生徒が宿題を持ってきた曲の表現に思わずグっときて思わずぎゅーっとしたくなることもあるし、巨匠が棒を振ってる名演をDVDで見ていて思わず心を持って行かれる時だってあります。
ショッピングモールで歌っていたインディーズの歌い手さんたちの歌声に一歩も動けず聴き入ったり、一枚の名画の前に座り込みたくなるくらい心を奪われたりもします。(これは先日の平山郁夫さんの展覧会で「天堂苑樹」という絵の前で実際にそうなりました。)
近いところで言えば、土曜日のラジオで聴いた「I LOVE YOU」がまさしく心の奥の方をぎゅーっと掴まれる表現だったし、そもそもつよしさんと言う人はわたしの心をいつもいつも・・・そして時々思いがけないシチュエーションでも不意にぎゅーっと掴む人。
こういうキラキラな瞬間に出会うと、モノクロームに思えていた日常の景色に急にカラフルな色がついたように感じたり、ただ風に木立が揺れている景色にも深い意味があるように思えたりします(笑)
男女問わず、好きな人たちのしあわせをこっそり願ったり、誰かに不意に感情移入するするだけで胸がきゅーっとしたり、しあわせになったりもするので、大きく分けるとやっぱりこれも一種の恋愛体質と言えるのかしら(笑)
さて。
きのう久しぶりにオットとオトートを誘って堂本兄弟をリピートしました。
K氏の堂本兄弟、家族も大喜びで見てました。今回はトーク番組としてもファンとか関係なく、普通にとっても面白かったなぁ。
日本語上手ですね〜K氏は。
母国語じゃない言葉でトーク番組にゲストで出るっていうだけでも結構大変だと思うのに、関西弁標準語交じり合う空間で、ものすごくポンポンと会話が行き交うシチュエーション。
コミュニケーション能力の高さもさることながら、いっぱい笑いまで取るなんて、ほんと尊敬・・・そんなことを思いながら見てました(笑)
そしてあんなにたくさん笑わせてくれたのに、曲が始まった途端に空気がガラっと変わります。
Piano Man」はビリージョエルの名曲のひとつで、元々アルバムも持ってた気がするし、大好きな曲ですが、K氏の歌うその曲はまた本人とはひと味違ってすごくすごく素敵でした。
力強いし、生きるエネルギーに満ちてる感じ。ピアノやブルースハーブの音色は、何をおいてもこの人音楽が好きなんだなあというのがすっごく伝わってきました。
マッキーとのコラボもハモリにしても表現への寄り添い方にしても、とっても高度で気持ちが入っていて、聴き応えがありました。
そしてその歌っている姿を見ているKinKiさんの瞳もキラっキラしてましたね〜
最近また堂本兄弟の満足度が高いです。J Soulさんたちあたりからのリピート率がものすごく高いです。
あの回の青椒肉絲あたりのつよしさんの即興的なダンスもすっごく好きだったなぁ。
こうやって一瞬にして心を奪われるという経験がいっぱいできるのはしあわせなことだと思っています。
最近、人は人、自分は自分という空気が益々世間に満ちていて、たくさんの事件が起こってもどこか「人ごと」という空気がとっても哀しいです。
たとえば学校教育の体罰問題も、女子柔道の問題も、もちろん本人に一番問題があったにせよ、あそこまで大きな問題になるまでに周りも含め何かできることはなかったのかなぁと思います。
もちろん暴力は何があっても反対です。たとえそれがどんな結果を生もうとも。
論点はそこではなくて、これらの事件の当事者たちは、よい結果を残すことに対する責任を、一身に負わされていた側面もあるんじゃないかなぁと。
AKBの二十歳そこそこの女の子が自ら坊主になって動画サイトでものすごくたくさんの人の目にさらされることになった事件もまた、全然違うけどちょっと同じ側面があるような気がします。
わたしの身近にもあのくらいの年齢の子たちがいっぱいいますが、まだまだいっぱい失敗しながら成長していく年頃です。
「ああしないと許されない。したことの責任は取れない」と思ってしまった彼女に「ちょっと待って。それは違う。」と言ってあげる人はいなかったのかなぁ。その動画を上げることが、さらに彼女を追い込み、さらに大きな騒動を生むことを想像できる大人はいなかったのかな。
常に大きな責任とプレッシャーを与えられ、極限まで追い込まれることが日常になってしまったら・・・追い詰められてとんでもなく極端な行動に走ってしまうのもわからないではない気がします。
人一人がそこまで追い詰められることにより、あらたな被害者が生まれ、多くの人があらたな騒動の渦中に放り込まれる。
暴力に晒された人たちの身体の傷はたとえ治ったとしても、心の傷は容易には治らない。ましてやそれが原因で命を落とすなんて痛ましいにも程がある。
そんな事件が起きるまで誰かが追い詰められ、歯止めがきかなくなる前には短くはない時間があったはず。
その間にタオルを投げてあげられる人はいなかったのかな?上からものが言える立場、要職についている人たちの中に、「やめなさい」ときっぱり止めてあげられる人、一緒に責任を分け合おう、一人で背負うことじゃないと言ってあげられる人はいなかったのかな。
どこかに弱音を吐ける場所はなかったのかな?
今の世の中、誰もが心の隅っこに孤独を抱えていて、どんどん心が脆くなっているのに、一方で社会全体が益々他人に厳しくなっているように思えてなりません。果たしてそういう厳しい言葉を吐いている人の何割が、同じ厳しさで自分のことを律しているのかしら。自戒もこめていろいろなことを考えさせられる事件たちでした。
意外と鍵を握るのは、想像力なんじゃないかと思ったりもします。
自分の心だけじゃなくて、他人の心の中までも想像する力。立場の違う人の気持ちを、わからないと決めてかからずに、理解しよう、寄り添おうという努力。何事も見て見ぬ振りをしない勇気。
そして責任をひとりの肩に委ねるんじゃなくて、特にいろいろな種類の人間を教え育てていく教育という分野においては、たくさんの脳みそが関わり、自由にものが言える空気が必要な気がします。
人が体験することでしか「気持ち」を理解することができないならば、絶対に世界中の紛争は解決しないし、となりの人の気持ちなんて一生わからないままだと思うのですよね。
少なくとも人の心の中なんてわからなくて当然だ!とは言いたくないなあと思うこの頃です。