ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

[日記] アネ卒業に寄せて

 夕べは、日記が書けませんでした。なぜかというと、便箋と封筒を前に、アネの担任の先生にお手紙を書いていたからです。個人的にお礼を言っても言ってもいいきれないくらい、W先生には本当にお世話になったのです。
 今日はアネの高校の卒業式でした。彼女の学校は、地元でも中くらいの普通の公立高校なのですが、生徒たちがみんな穏やかないい顔をしていて、こんないい学校に通うことができてありがたかったなあとしみじみ思いました。 
 一時期は果たしてこの生徒たちの列に、アネが無事入って卒業できるのかどうか、全く自信がない時期もありましたが、今日見た彼女は普通に気負わず元気で、友達の輪の中で楽しそうにデジカメで撮り合った映像を持って帰ってきました。
 まだ、病気との決別になる、完全なるゴールだとは思っておりませんが、ひと安心です。
 「無事、卒業ができたこと、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。」と誰彼ともなくお礼を言いたい気分です。
 実は何度か書いておりますが、彼女は昨年の春過ぎから心のバランスを崩してしまい、ただ学校に通うことさえもが、本当に大変な時期もありました。今まで皆勤賞だった子が、突然朝起きられなくなって、遅刻の山を築き始め、真っ青な顔で起きられないと訴えるようになりました。「学校に行くのが本当につらいんだ」と何度も涙ながらに言われたりもしました。
 どうやら、学校に行きづらくなるきっかけを作った出来事は、「クラス替え」で、それまでずっと仲良しの友達と同じクラスだったのが、3年のクラス替えに限って、大勢いるはずの仲良しさんの誰ともみんな違うクラスになってしまったことだったよう。
 「たったそれだけのことで?!」と思ってしまったことが、そもそもわたしの大誤算で、今思えば、どうしてその時にもっと話を聞いてあげなかったんだろうと思います。
もちろんそれだけが原因ではなくて、そこまでに積み重なった何かがあったのでしょうが、「クラス替えショック」により、今までにたまりにたまったものが、一気に噴出してしまったというのが真相だったらしいです。
 そんな事態に不慣れで戸惑っていたわたしは、しばらくは無理やり学校に通わせようとして、それがどんどん彼女を追い込んでしまったのだと今ならわかるのですが、当時は必死すぎてわかりませんでした。今になってみると、かわいそうなことをしたなあとつくづくと思います。
 そんな繰り返しがあって、春の終わりのある時、「わたしもうダメ。死にたいかも」と言われたまま携帯の電源を切られてしまいました。学校から早退したまま、いなくなってしまったのです。何時間も探した挙句、びっくりするほど顔に色がない彼女を見つけ、肝を冷やしました。それまでは、彼女の出すSOSをうまく受信できなかったわたしも、この体験から本気になって彼女の病気と向かい合うようになりました。「そっか、病院へ行かねば」と思ったのもその時です。
 「もし今、ここにいる娘を亡くすことになったら?!」という恐怖は想像を絶するもので、梅雨時から夏にかけてのわたしは、毎日毎日、夜中にも彼女が生きているかどうか心配になって、何度も部屋をのぞいたり、彼女を見張るようなことをしては、本人にいやがられたり・・・この時期のわたしは、今思えば娘よりもずっと病的で、どうかしていたのだろうと思います。オットには何度も、「オマエの方がよっぽど変だ!いい加減にしろ!」と言われたりしました。その時は、もうちょっとオットも真剣になってくれればいいのに・・・くらいの気持ちでいたのですが、今にして思えばオットの方は、ちゃんと冷静さを保っていたのかも。なんにせよ、ふたりで大騒ぎしなくてよかったのだと思います。
 病院に通い始めてからも劇的な変化があるわけではなく、試行錯誤の繰り返しは続き、なんとか彼女の想いを聞き出そうとして何度も喧嘩したり、死なれては困ると干渉しすぎたり、比較的元気な夜中に何時間も話したり、今思ってみても尋常ではない日々を送りつつ、少しずつ娘との距離を埋めることに専念する日々でした。
 そんな風になって初めて気がついたのですが、親としては「子どもが大切だ」というのは当たり前すぎる事実で、わざわざ言葉に出して毎日言いはしないけれど、伝わっているものだと思い込んでいるということです。でも、実はそうではなくて、照れ屋であたりまえのことを口に出したくないわたしの気持ちは、全然彼女に伝わっていなかったのです。
 そんなこんなで、これではいけない、これではいけないとあせりつつ、二度と彼女が死神に襲われないように、そんなことを考え考え送った1年が猛スピードで過ぎていき(ただ中にいた時は、途方もなく長かったのですが、笑)今年に入ったあたりから、だいぶ彼女も落ち着きを取り戻してきました。
 こういう時の母親って、どうにも感情的になりすぎて、全然話にならないのですが、ありがたいことにこの騒動の間中、時には距離をとったり、わざわざ距離を詰めたりしながら見守ってくれた人たちがいて、それがお友達であり、先生でした。
 「学校に行くのが怖い」「友達にもみんな笑われている気がする」なんて言っている彼女に引くこともなく、ずっとそばにいてくれ、断っても断ってもずっと誘い続けてくれた友達たちと、結局はクラスが違おうが何であろうが、ずっと親しくつきあってきました。今日もその子たちと、楽しくお昼を食べて来たらしく、にこにこしながら帰って来ました。
 また、担任の先生も休んだり行事ごとの前には必ず、「おいでね」と電話や手紙をくださったり、文化祭ではちゃんと参加できるように「Tシャツのデザイン」とか、「マグカップのデザイン」とか、彼女が得意な仕事をあえて振ってくれたりもしました。
 そんなこんなで、皆さんの協力もいただいて、やっと手にした卒業証書は娘にとってもわたしにとっても、とっても重い価値あるものになりました。
 これからもいろいろなことがあるかもしれないけれど、とりあえず大きな山を越えられたという自信を持って進んでくれるといいなあと思います。
 今でもまだ、体調や気持ちが不安定なときもあるし、4月からは都内の専門学校に通うことが決まっているので、その通学に関してなど、心配事は山積みですが、今年一年を乗り越えられたんだから、なんとかなりそうな気がします。
 娘の小学校の時に、担任の先生に「アネのガソリンは多分『愛情』だと思います。ひと一倍、気持ちが細やかで、人の気持ちも自分の気持ちも、敏感に気になりすぎてしまう彼女は、思春期には多分ずいぶん悩むんじゃないかと思います。でも、愛情というガソリンが常に実感できていれば大丈夫・・・」みたいなことを言われたことを不意に思い出しました。
 わたしは母親としてはとってもダメダメで、しかも鈍感すぎたようなのですが、今からでも遅くはないという気持ちで、子どもたちにもっと良質の「ガソリン」を・・・と今つくづく思っているところです。
 「今の子は〜!」と何につけてもよく言われるけれど、今日の「高校生たち」を見る限り、決してそうではなかったです。送辞や答辞を読んだ男子生徒たちは、ちゃんと自分の言葉で、とっても素敵な挨拶を堂々と読んでいたし、涙ぐんだり笑いあったりしている生徒たちは、わたしたちの頃とちっとも変わってはいませんでした。
 これが普通の子の集まる、誰にでも門戸の開かれた公立高校の卒業式だというのが、なんだかとっても誇らしくて素敵に思えました。この子たちの未来に幸せが一杯待っていますように!!
 さてさて、明日は今度はオトートの関係のイベントです。PTA主催の先生とのお別れ会があって、そちらではわたしは役員なので、明日は多分走り回ることになると思います。すでにピアノはお休みにしてあります。
 それが無事終わったとして、来週は木曜日にオトートの卒業式があるので、今度はオトートがお世話になった先生方にお手紙を書かなくてはなりません。オトートはオトートで大きな持病を持っているので、これまたたくさんの先生方にお世話になってきました。それなので、少しは恩返しをと思い役員を引き受けたわけですが、今年度は恐ろしくいろいろなことが重なって、怒涛の一年でした。
 さあ、ラストスパートです。とりあえず、明日が何事もなく無事過ぎますように!!