ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

 「わたしが好きなものはわたしが決める!」〜「サラバ」に寄せて〜

サラバ! 上

サラバ! 上

サラバ! 下

サラバ! 下

ことわっておきますが…一般的な本の感想とはちょっと違います。
それをご承知の上で入られる方はどうぞ。

少し前から絡めて書きたい書きたいとほのめかしていた作品、直木賞受賞作品の「サラバ」です。

本当は文庫になるまで我慢するつもりでしたが、待ちきれず買ってしまいました。
とても分厚い、それぞれが400ページ弱の上下巻ですが、読み始めたらあっという間でした。
ほんの3日くらいで読み終わってしまいました。

物語全体としての印象は、まるで大河ドラマのよう。
縦糸は日本で近年起こったさまざまなできごと。経済の急成長とか、カルト教団の大事件、企業がどんどん海外に進出して、そして戻ってきた過程とか。
阪神や東北の震災とか。

いろいろな、ほんとうにあったできごとと、その中で翻弄される一家という描き方がされています。

そして横糸が、そこに生きる主人公一家の生活、そして心情。

登場人物はさまざまな時代背景の中で、ある時は踊らされ、ある時は考えに考え、ある時は思い切った行動に出て、ある瞬間には絶望し、人生観が変わるほどの体験をします。

物語のスタートは「イラン」のテヘランです。

そして後に「エジプト」にも駐在し、上巻では特に駐在生活がとてもリアルに生き生きと描かれていて、まずはそこにとても惹きつけられました。
作者の西加奈子さんも実はテヘランの生まれだそうですが、だからこそさまざまな描写がとてもリアルなんだろうなぁと思います。

我が家も子どもたちが幼児から小学生の間、4年間南国マレーシアで暮らしたので、そのあたりの描写がとてもなつかしく、あまりにもリアルで、一気に惹きつけられました。

たとえば空港に降り立った瞬間の異国、そして異文化の匂いの記憶。

南国のむせかえるような熱い湿った空気とか、トイレの入り口で小銭を払わなきゃならないのに、いざ入るとびっくりするほど汚れてたりとか(わたしのいたマレーシアは、4年間の間にまったく様変わりして、綺麗になりましたけど、笑)

無条件に小さい子や老人にびっくりするほど寛大でやさしい人々とか。
(あれを経験しちゃうと日本人ってほんとに弱者に冷たいなぁと、帰国後しばらくはがっくりきます。)

街のそこここで出会う、スピーカーから大音量で流れるアラザン(イスラム教徒のお祈り)、いろいろな異国の異教の宗教儀式、そしてさまざまな信仰のカタチ。

ああ、わかる!わかる!と思いながら読みました。
井の中の蛙大海を知らず」
外の国へ出るとそのことがよくわかる。

主人公の家族4人は、それぞれにまったく違う性格です。

特に主人公は典型的な「あいまいな日本人」で、常に周りを見てど真ん中から一歩引いていて、空気を読み、目立たないように行動するところとか、物事を無難に切り抜けようとするところとか、わたしはこの主人公の中に、まずは自分、そしてここのところ何度か日記にも登場したオトートとよく似た欠点を見出してしまい、ちょっと苦しくなりながら読みました。

一方、これまた物語的重要人物の一人、主人公のお姉さんは、主人公から見ると一見わがまま放題、やりたい放題で、あまりにも自己顕示欲が強くて、なにひとつ我慢していないように見えるのですが、実は彼女もまたずっと、何かを求めているのに、その何かがわからず、もがきながら、周りごと大嵐に巻き込みつつ生きてるような女の子で。

この一見正反対の姉弟、そしてなぜかある時から突然お坊さんのようにすべてを我慢し、身体を絞り、どんどんストイックになってゆく父。
「愛されること」にこだわり、どこまでも自分を愛してくれる人を、自分のしあわせだけを求め続けているようにしか見えない母。

この夫婦はやがて離婚してしまいますが、離婚の原因も、その後のふたりの生活、気持ちもわからないことだらけです。

とっても個性的な一家の暮らしを軸に、物語が展開していきます。


前半部分は主人公歩の少年時代。

あまりにも自己顕示欲の強い姉を反面教師に、自己主張をせずに常に周りとのバランスばかりを考えてきた歩は、美しい容姿もあって、常にどの集団の中でもいい位置をキープして、存在感を誇示しています。

なにもかもが順調にも思われるのですが…
これが後半になるにつれ、雲行きが怪しくなって行きます。

一見見せたいように見られ、そうありたいように思われて「うまくやってきた」と思っていた彼自身、そして彼の周りの世界がだんだんに崩れていきます。
仕事が、友人や恋人との人間関係が、うまくいかなくなっていくにつれ、もうひとつとても彼にとって大事なこと、髪の毛がだんだんごっそりと抜けてゆき、彼にとっては砦のひとつである容姿が崩れていくのを止められないことが、彼の絶望に拍車をかけていきます。

一見他人にとってはどうでもいいことでも、本人にとっては重要な問題だということもあるわけで。

長い長いトンネルに入る主人公。
出口が見えないトンネルの中でもがき苦しむ主人公。

さて。

一旦物語から離れて。

少し前、友人と会ったときに、この倫理観とか道徳観とかがまったく薄れてしまった世の中で、どこに規範を置いて生活すればいいんだろう?みたいな話をしました。

なんだか個性的な人の個性がどんどんつぶされる世の中になっている気がする。

黙って言うことを聞いている子がいい子で、静かに勉強をしている子がいい子で、「都合がいい子がいい子」な世の中はどんどん加速している気がする。

いいオトナがずるいことを平気でする世の中。

平気でウソをつくし、言っていることがころころ変わったり「言っていない」と言い張ればまかり通っていくような世の中。

弱いものを切り捨てたり、人を「自己責任」と突き放したり、お金がすべてに優先し「自分の」お金を守るためならなんでもするような人がたくさんお金を持っている世の中。

たとえば言ってはいけないことを言っても、受け取ってはいけないお金を受け取っても、強者の側に立っていれば、いつの間にかなかったことになってしまう世の中。

詐欺が横行し、弱者がお金をむしりとられる世の中。

電車の中で身体が悪い人やお年寄りや、妊婦さんが立っていても、携帯の画面に夢中で、もしくは寝こけていて、まったく誰もが無関心な世の中。

何を信じればいいのか、誰の言うことが正しいのかさっぱりわからない世の中。

子どもの世界でいじめがなくならないと言うけれど、会社で、ママ友同士で、趣味のサークルでさえあちこちで悪意のある関係は転がっているわけなのだから、子どもの世界にいじめがなくなる日なんて来るわけない。

起こっていることはすぐにネットで広がり、恥ずかしいオトナの行為はあっという間にネットを通して世の中の隅々にまで伝わっていく。

それを見た子どもたちはオトナを尊敬するどころか、小さいうちから、どこかオトナを軽蔑し、すでにして世の中をあきらめていて。

そして何かとんでもないことがあっても正直者がバカをみる。

それでも希望を捨てず、よじれず曲がらず、すっくと前を向いて、力強く歩いていくために、人には何が必要か?

日本人はちょっと違う側面があると思うけど、一般的にはそういう不安や心の基盤みたいなものを人は宗教に求めるのかな?と思ってみる。

でも、世界情勢を見ていると、宗教は大きくなればなるほど、その排他的な側面ゆえに、今はそれが争いの元になっていて。
日本では「宗教」というとすぐに思い出されるのがカルトな側面のあるもので「だまされてはならないもの」という風に、近づいてくるだけで警戒心を抱かせるものでもあって。

たとえば街で声を掛けられても、決してついていってはならないもの。
ていねいにお断りしなくてはならないもの…という感覚になってるし。

実際とっても素直についていった友人がとんでもないことになる一歩手前だったエピソードなどもそこいらにひとつふたつならず、いくつも転がっていて。

そうなると、街頭でのすべてのお誘いは、警戒せざるをえないものにもなってしまうわけで。

一歩間違えれば犯罪に巻き込まれたり、拉致されたりもするわけで。

ちょっとでも「宗教くさいもの」「スピリチュアルの匂いのするもの」が毛嫌いされるのは、そういう実際に起こった怖いことのイメージが大きいのもあるんじゃないかと思ったり。

生まれながらに宗教を持ち、親の代、祖父母の代から当然のようにその宗教を信じていて、赤ちゃんのうちから洗礼を受ける民族と、この八百万の神の国、日本とではやっぱり宗教というものに対する考え方も重さも違うような気がするし。

自分を振り返ってみても、神社にお参りに行ったり、お寺で拝んでみたり。
法事の帰りに神社でご朱印をもらったり、先週クリスマスケーキを食べたと思ったら今週は初詣に出かけたりもするわけで。


じゃあ、誰を信じればいいの?何を信じればいいの?何を規範にして生きていくのが正しいんだろう?という気持ちになった時に、たとえば先人はどう言ったんだろう?にぶち当たるのではないかと思うのですが、最近は核家族化が進み、世代間の交流はどんどん減っているし。

本を読めばどの時代にだって行けるし、どんな疑似体験もできるわけだけれど、本を読まない人が増えているし、教科書に書いてあることもほんの一部の一部だったりするわけで。

そんなもやもやの答えがおぼろげにわかったのがこの本だったような気がします。

ある日、突然人格まで激変して戻ってきたように見える姉が

あなたが信じるものを誰かに決めさせてはいけない

といい、弟は当惑します。

自分が生きていくのに本当に必要なことが何なのか、見つけることは途方もないことに思えて、長きにわたりだらだらと生活を送ってしまう弟ですが、ついに見つけたものは「これ」とはっきりと形のあるものではありませんでした。


重要な鍵を握る人物として、血のつながっている人物ではないのですが、姉弟ととても仲良しで、かわいがってくれた「矢田のおばちゃん」という人物が登場します。


この方は主人公のおばあちゃんの親友で、関西の普通のおばちゃんなのですが、ある日突然なぜか本人の預かり知らぬところで祭り上げられるように教祖さま?になり、そしてある日突然、また何もかもを失ったように、普通の関西のおばちゃんに戻ってゆきます…世間的には。

教祖さまと祭り上げられて、たくさんの信者さんたちが集まるようになっても、ずっと小さなアパートに一人で住んでいて、いいものを着るわけでもなく、高価な家具を入れるでもなく…

どんなときもまったく自分の生活レベルを変えないおばちゃん。

おばちゃんの中身はまるで変わらないのに、周りの景色だけが激変した印象。
「偉大な人になっていた」間も、主人公姉弟にとってはいつも、いつまでも何もかもをありのままに受け入れてくれる気さくな近所のおばちゃんで。

なぜそのおばちゃんが祭り上げられたのか、なぜその宗教がいつの間にか消えてしまったのか…

そこにはただただナゾが残るばかりだったわけですが。

そのおばちゃんが死ぬちょっと前に自分が創ったと思しきその新興宗教のようなもの?について、語る場面があるのですが、それがとても印象的でした。

まずは本文からの引用です。

あらゆる人の、たくさんの苦しみ。決して解決できないものもあったし、どうしても納得できない残酷なできごともあった。
きっとそういう人たちのために、信仰はあるのだろう。自分たち人間では手に負えないこと。自分たちのせいにしては、生きてゆけないこと。
それを一身に背負う存在として、信仰は、そして宗教はあるのだろう。

既存の大きな宗教は、その排他的絶対的側面ゆえに新たな争いを生むということを本能的に知っていたおばちゃんは教祖さまもご本尊も設けずに「サトラコヲモンサマ」と書いた「ただの紙」を「ただただ拝む」というやり方をしていたら、次第に人が勝手に集まってきました。

ふたたび引用させてもらうと

サトラコヲモンサマには、教義がなかった。そもそも、宗教ではなかった。サトラコヲモンサマは、ただそこにあるだけのものだった。紙だった。祈る人に何も強要せず、何も与えず、ただそこにあった。皆はすべてをサトラコヲモンサマに預け、サトラコヲモンサマのせいにすることが出来た。

ここここここ。

なんだかすご〜く大事な文章を今わたしは読んでいると実感したところです。

これを見てわたしは思いました。

あれっ?こんな世界観知ってる。
一見なんだかよくわからなくて。理解の範疇を超えるもの。でも、唱えていればなんだかハッピーを連れてきてくれるもの。
単なる合言葉で、そこに意味を求めてもムダ?ともいえるもの。

まさしくこれはshamanipponとおんなじだな!と(笑)

別に宗教じゃなくったっていいのだな!!
「信じられるもの」が必ずしも神さまである必要なんてないわけです。

ただ自分が「信じられる」と思えば、それはいつだって信じられるものになる。

「shaman」って言葉が入っているから、宗教的なものなの?大丈夫?って言われるかも。
アイドルがやってるんでしょ?
事務所にお金を出してもらってやってる道楽なんでしょ?
お金の力で一流メンバーを集めたんじゃないの?
本当に本人が作ってるの?

言いたい人は言えばいい。
笑いたい人は笑わせておけばいい。

入り口を入ってみたらわかること。
聴いてみれば知れること。

知ろうとするかどうかはまったく個人の自由。

ものすご〜く高いレベルの音楽を保ちつつ、くだらないことをやっちゃう究極の遊び。

ただただshama shamaみんなで言っちゃうだけのもの。
符丁には実はなんの意味はないし、一見くだらないんだけど、遊びの合言葉のようなもの。

中に入った人が、その一言を唱えるだけで、無条件に楽しくて、いろんなイヤなことが忘れられて無敵になれるもの。笑顔がもたらされるもの。

楽しむ気持ちさえあれば、老若男女、誰が入っても楽しいもの。
誰も置いてきぼりにならない世界。

きっとこのサラバの「サトラコヲモンサマ」もそうなんだ!!
実を言えば、これは「茶トラ猫の肛門」なわけですが(笑)構うこっちゃない(笑)

苦しいこともたくさんある世の中を渡っていくための大事なエネルギーを貯める場所。

今の世の中に必要なものは、意外とこんなものかも。

ちょっと蛇足だけど、つよしさんが発している「dajyare」にしてもそうなのだ。
ダジャレとしての意味を求めてはいけないのです(笑)
その世界観でふわっと遊べる人たちが、みんなで笑顔になれればそれでいい。

そもそもが人と違ったっていいのです。
立派じゃなくったってぜんぜんいい。
きのうより今日、髪が薄くなっていたとしても…いやいやいや(笑)

とても変わっているということ、「KY」だと思われることを人はなぜ恐れなくてはならないのか?

昔の歩のように、ひたすらに周りばかりを見ながら常に我慢して、世間と足並みをそろえて生きていくことは、現代の世の中で、本当に安全で楽な生き方なのか?

そして再度この言葉を引用します。

やっと自分の信じるものを見つけて真に心の平穏な場所を見つけた歩のお姉さんは、いまだ悩み、立ちすくんでいる歩にこう言います。

「自分の信じるものを他人に決めさせてはいけないわ。」

なんとなくだけど、見たいチャンネル。好きになるべきもの。考え方。
誘導されているような気持ちになることが最近とても多いような気がします。

こっちがトレンドだよ!
こっちがアベレージ。
今流行ってるのはこれ。
今おもしろいのはこっち。
こっちならばチケットが取れるよ!
こっちの方が人気あるよ!

こっちへ行けば安心。
こっちにしたらお得。

タレントさん本人よりも、名プロデューサーの方が名を馳せて、「この子にしなさいよ!!」と言わんばかりに力のある事務所が勝手に自分たちが推したい人を売り込んでくる世の中。
テレビ番組、ドラマ、映画、コンサート。

こっちの方がいいよ!こっちの方がいっぱい見れるよ!こっちの方が推されてるよ!

でもでもでも。

わたしが好きなものはわたしが決める。
わたしの道はわたしが決める。

わたしにとって価値があるかどうかはわたしだけが知っている。
それを決めるのは世間でも数字でもない。


最後の方で姉が掴んだ幸せをきっかけに、家族のあり方が少しずつ変わっていきます。
おねえさんも、今まで自分にしか興味がないようだった過去がうそのように、家族にさまざまな働きかけをし始めます。

そしてまずは母がとてもしあわせそうに変わり、それを見ていた歩は最初とても反発するのですが、時間をかけてゆっくり、姉の言っていることを受け入れ始めます。

すべては気持ちのもちようでした。

そして自分さえ受け入れる用意ができれば、父はちゃんと話してくれて、容易に解けてゆく様々な両親の謎。

まったく違う色に見えてくる世界。
存在意義を見失っていた自分をやがて取り戻す瞬間。


もうちょっと深く掘り下げると、ネタばれ感想になっちゃうので、あえて書きませんが、つよしファンに宛書しようと思ったのは、そんなところからです。

ちなみにこの本のタイトル「サラバ」もまた、主人公にとってはとても大切な「信じることができるもの」につながる一言です。

この一言に万感の思いをこめて、最後主人公はこれを言います。

「サラバ」

明日からも歩いていける!と胸を張って言えるようになるのです。

誰の胸にも苦しみも悲しみもあって、誰の胸にも不安があって。

でも歩いていかなくてはいけなくて。
絶望したまま、倒れこんで布団をかぶってねているわけにはいかなくて。

もちろん主人公はこの呪文を手に入れたからと言って自動的にしあわせになるわけではありません。
結局は自分の手で自分の道を切り拓くよりないのだから。

その魔法の言葉に依存しているだけでは何も変わらないし、前には進めないわけですが。

それでもその一言があるだけで無敵になれる。がんばれる。大丈夫だと信じられる。

そんなわたしたち現代人にとって、何が心のよりどころになるか…そんなことをいろいろと考えながら読みました。

読後感はとてもさわやかでした。

まだまだできる!という気がしてきます。
自分の物語はまだまだ始まったばかり。

途中ちょっと苦しい場面もありますが、たどり着いた先はとても気持ちの良いものでした。

みなさまにもオススメしたいです。