ふぇるまーた2

かたよらず、こだわらず、とらわれず。好奇心のおもむくままにどこまでも。

  リレー

だんだんに書き足しているうちに、超長い文章になっちゃいました(笑)
急ぎの話でもなければ、みなさんが読んで面白い話とも思えないのですが、自分にとってはどうしても書かなくてはならない日記のような気がして少しずつ書き溜めました。
こういう世の中ですから、誰にも当然のように明日が待っているとは限らない。どこかにちゃんと書いておこう・・・という気持ちになったので、このエントリーを書いておきます。
長いので携帯から読むのはちょっと厳しいかも。お暇な時にゆっくりとご覧くださいね。
次は楽しい日記を書くつもりなので、お時間がない方はそちらをもう少々お待ちくださいませませ。
オトートに筋疾患があるとわかった時の話は多分いつだったかの日記に書きました。
もう約15年も前の話ですが、当時にしてはまだ珍しい遺伝子検査をして、遺伝子にこの病気特有の欠陥があることが判明しました。
オトートが小学校1年生の時です。
そもそも筋ジスという病気は「とにかく恐ろしい」という知識しかなかったわたし及び我が家は、その瞬間から震え上がって、絶望の淵に叩き落とされたような気持ちになったわけですが・・・
その時にふたりの先生にお会いして、また前を向いて歩き出すきっかけをいただきました。
そのおひとりは、診断が確定した大学病院から紹介されて行った先、国立病院の筋ジス科のI先生です。
夏休みだったこともありますが、わたしたちが病院へ行った日にも全国からたくさんの家族が先生に診ていただくために集まっていました。
どの家族もそれぞれに大変な日常を送っていたことと思いますが、先生の診察を受けて帰る頃にはみんな笑顔になっている。だからこんなに患者さんが集まるのだ・・・と評判の先生でした。
当時すでに仕事盛りという年齢だったI先生は、ひまわりのような暖かくて強いオーラを持った名医で、精力的に患者さんたちと、あるいはそのご家族と向き合っていらっしゃいました。
筋ジスはまだまだ治療法がちゃんと確立していない病気なのに、お会いした瞬間にネガティブをすべて払ってくださるような、そんな頼もしさがある先生です。
今は箱根の病院へ転勤されていらっしゃいますが、この先生に当時受けたご恩は一生分・・・とも思っています。
包み込むような暖かさを持つ一方で、まだ幼いオトートの目をまっすぐに見て「身体が思うようにならないこともあるかもしれないけれども、今後のためにお勉強をがんばりなさいよ!!」とものすごく強い目でおっしゃってくださり、先生が息子の未来を見据えて、希望をこめてそうおっしゃってくださっているのだなあということがわかりました。
I先生との出会いが筋ジスとの出会いの直後であったことは我が家にとって最も幸運だったことで、あんなに怖い病気を宣告されたにも関わらず、絶望しないで済んだのは半分はこのI先生のおかげだと今も思っています。
さて。
今日の話題はもう一人の恩人とも言えるK先生のお話です。
現在の日本筋ジストロフィー協会の理事長、K先生は、パニック障害がご専門のお医者さまで、その分野ではかなり有名な方で、東京の真ん中でクリニックの理事長先生をなさっています。
先日、我が家に定期的にやってくる筋ジス協会の会報に、我が家にとって忘れなれない記憶を呼び覚まされる興味深い記事が載っていました。
オトートの病気が筋ジストロフィーであることが確定したばかりのある日の話です。
今思い出しても一番長くて苦しかったその夏、日本ではどこへ行ってもV6の「WAになっておどろう」がかかっていました。
今にして思えばこの曲を何度も何度も耳にしたのも偶然ではなくて、神さまがわたしたち家族を見捨てず見守ってくださっていたということなのかもしれない・・・とさえ思ったりしていますが、当時はひねくれ、八つ当たりして「もうこの曲は聞きたくない」とさえ思っていました(笑)
検査をしてから、長い長い診断確定までの道のり、歯医者さんへ行ったり、子どもたちとあちこちの友達と会ったり、いつもと同じ一時帰国の時間を過ごしたりしつつも、どこかに常にオトートの病気のことが引っかかっていて、正直あまり細かいことは覚えていません。
何も知らない子どもたちが妙にはしゃぎまわって楽しんでいたのと、いつもふとんに入った途端どんなときもちゃんと眠れるわたしが、その夏ばかりはどんなに疲れていてもちっとも眠れなかったこと。
それなのにすぐに目が覚めて、ちっとも眠くなかったこと。
変なことばかりを思い出します。
子どもたちの新学期にはマレーシアに戻らなくてはならないので、帰国の日程が迫っている中、地方の大学病院から紹介状をもらって、まずは国立病院の筋ジス専門のお医者さんのI先生に見ていただいたのですが、そこで「またマレーシアに帰るなら、日本を出る前に絶対に会って行きなさい。」と強く勧めてくださったのがK先生でした。
「それでいつ(マレーシアに)帰るの?ちょっと待ってね。がんばってK先生に時間を作ってもらってあげるから。ちょっとムリをしてでもこの方にお話を聞いてから飛行機に乗ったほうがいい。ぜひぜひそうしなさい。」
I先生はわたしたちに強くそう勧めてくださいました。
その時は「I先生という名医に出会った直後に、どうしてまたすぐに別のお医者さまに会いに行くんだろう?」と首をかしげた記憶があるのですが、どうしても・・・というI先生のパワーに押されて実現したアポイントでした。
教えられたままに訪ねた先で扉を開けたら、白衣ではなくて普通のスーツを着た先生がいらして、開口一番「ようこそ、筋ジスの世界へ」とおっしゃいました。
わたしたちに向けて「筋ジスの子どもを持つ親業を楽しんでくださいね。」というようなニュアンスのこともおっしゃって、ものすごくびっくりしたのを覚えています。
ええ??楽しむですって!?そんなことってできるのかしら?そんな日が来るのかしら?
当時目の前が真っ暗になっていたわたしが、先生にお会いして「なんだかわからないけど、そんなに絶望的なことじゃないのかも?」と思えたのには大きなワケがあって、それは先生の息子さんもまた筋ジスの患者さんだったから。
ご自分もかつて息子さんの病気を宣告され、患者さんの親としての人生を歩んでこられた経験者の先生が、わたしたちに向けて話してくださるひとことひとことは、とてもとても説得力がありました。
病気の宣告を受けたてのわたしたちが、更に傷つくようなことはひとこともおっしゃらなかったし、今は患者さんの息子さんと、ほかにもいらっしゃるお嬢さんたち、そして奥さまと楽しい人生を送ってますよ・・・というお話を、まるで「今日のお天気」について語っているかのような気安さで話してくださいました。
その先生のたたずまいはとっても落ち着いていて、嘘をついているようには全然見えなかったし、のんびりとお話くださるひとことひとことは、悲劇のヒーローのそれではまったくありませんでした。
そして、何度となくお医者さんに言われてきた「育て方が悪いからこうなった」とはもちろん言われませんでした(笑)
この言葉は珍しい病気の子や、発達障がい、精神疾患を持つ子の親が、診断が確定し、専門のお医者さんに見ていただくまでの間に言われがちな言葉だと思うのですが、ご多分に漏れず、わたしも近所の評判のいい子ども病院の先生に何度かそう言われた経験があります。
なかなか歩かないオトートに対して「歩かないのはおかあさんが子供を構わずほったらかしだからだ」
言葉の発達が遅いことなどもあげ「情操教育が足りないからだ。」
そんな風にまあ言いたい放題を言われました。
それに対してお医者さん本人には言いませんでしたが「何言ってんの?わたしを誰だと思ってんの?音大で音楽と教育の両方を勉強して、主席で賞までいただいて卒業したわたしにそれを言うか!ばーか!ばーか!ばーか!」
心の中でそれを言うだけでずいぶん慰められました(笑)
大学なんだからただただ出席してればいい成績が取れるくらいのものですが、唯一そのことがわたしを支えたと思うのはこの時くらいのことだったかもと振り返っています(笑)人生何が役に立つかわからないなぁ。
おっと話がそれちゃった。K先生でした。
当然ながら、もちろんK先生はわたしの育て方が問題で筋ジスを発症したとはおっしゃらず。
病名の恐ろしさに惑わされてはいけない・・・と言っていただいたような気になったし、先生のお話を聞いているうち「これでもうおしまい」なんて思うことはない。その先にも道はちゃんと続いている・・・そんなことを言っていただいたような気持ちになったのです。
当時、これは大変なことになったぞと身構えた我が家にとって、先生の落ち着いたお話ぶり、のんびりとした口調は心底意外でした。
確か当時先生の息子さんは学生さんだったと思うのですが、その息子さんの未来についても「こうなったらいいなぁ」的なことを語ってらして、ああ、そうか。難病の宣告を受けたからと言って、未来がなくなったわけではないんだなぁ〜と、まだまだ混乱している頭の中でぼんやりと思ったことを覚えています。
そして、I先生とK先生のおふたりにお会いしたことによって、確かにわたしたち家族は「完全に」とは言わないまでも、少しずつ希望を取り戻し、比較的(笑)おだやかに・・・マレーシアでの日常へと戻っていくことができたのでした。
まだまだ前置きだなぁ(笑)枝葉が多く読みにくくてごめんなさい。
ここからが本題です。
この話はわたしたち家族が先生に助けていただいた素敵な思い出の記憶なのですが、最新の会報にこんなお話が載っていました。
K先生は息子さんが大学3年生になったとき、東京に来て筋ジス協会でボランティアを始められたのだそうです。
『病気を宣告されたばかりの若い親とのカウンセリング』がそのボランティアの内容だったのですが、まさしくわたしたち家族はその、先生がボランティアでやってらっしゃったカウンセリングを受けたのでした。
文章の中で、先生もまたそのボランティアをきっかけにご自身のお医者さまとしての気持ちの変化やあり方が変わったとおっしゃっていらっしゃいました。
『筋ジス協会の仕事は全くボランティアでまさにたくさんの患者さんもためにという気持ちで始めたのですが、実際には、「人の為ならず」であったと思っています。』
わたしたちは先生にお会いして前向きなパワーをいただき、先生はわたしたちにお会いになったことによって、ご自分の心の中を整理され、それがまたパワーとなって、ご自分のお仕事にもいい変化となったとおっしゃっている・・・それはなんて素敵な前向きなパワーの循環なんだろう・・・そんなことを強く思いました。
そして今回の記事を読んで、最近薄々感じていたこと・・・
先生からわたしへと託されたバトンを、わたしも微力ながら次へとつながなくてはならないのではないかと思いました。
それは人から人へ、世代から世代へ、気の遠くなるような長いリレーですが、その一端を担っているのかもしれないという気持ちを強く持ちました。
その一端として日記を書き始めたことも思い出しましたよ。そうなのです。最初はそんな意味もあったはずでした。
当たり前ですが、わたしはお医者様ではないので誰かに安心をあげることはできないし、元々人見知りな方だし、自分からいろいろな人に声をかけたり、思っていることを言葉にしたりするのはかなり苦手なタイプだったのですが、それでもやっぱり自分の体験そのものや我が家で起こっているさまざまをあえて書いていこうと思うようになったのは、このK先生との出会いがあったからだと思います。
誰かの体験が、たとえそれがポジティブなものであれネガティブなものであれ、別の誰かを知らず知らずのうちに励ましたり、たとえ感想が「ああ自分たちもたいがいスゴイけど、レイン家よりはマシ」だったとしても(笑)・・・読み手にとっての安心やパワーとなるならば、話をする価値はあるかも・・・と思うようになりました。
そしてI先生、K先生との出会いによっていただいたものを、わたしも次の誰かへと託さなくてはならないのではないか・・・という気持ちが日に日に増しているこの頃です。
わたしは人生にたくさんの借りがあるように感じていて、その借りはまた新しい誰かへと返して行くべき何かなんじゃないかと思ったりします。
そんなことを考えたならもっと日記をたくさん書けばよかったのですが、たまたま・・・この夏は個人的に仲良くしている方々にたくさんピンチが訪れて、一対一で話をする機会が多くあって、なかなか日記にまで手が回りませんでした。
ただただ話を聞くだけだけど、多少はお役にたてたかな?と思う出会いもあれば、ああ、無力だったと思ったこともありました。
希望を持たせるようなことを言って、更に哀しくさせてしまったのではないかと思った出来事もあったし、それでもやっぱり希望の言葉を伝えてあげたいと思う出会いもありました。
それじゃなくても自分のことさえちゃんとできないのに、人のことまでかまっているからちっとも時間がなくなる・・・と家族から苦情が来たりもしましたが、わたしにとってもどうしても必要な時間だったような、そんな気がする時間も多々ありました。
先生はまた、息子さんがこのような病気を得ることがなかったら、いろいろな人とのつきあいもなかったろうし、父はもっと世間が狭くわがままな人間だたろうとおっしゃってました。
そして、難病という暗雲が少しずつ晴れていく過程のことを、「あきらめるというのか開き直りというのかはっきりしませんが、むしろ環境に順応したと言っても良いかもしれません。」という言葉で表現されています。
環境に順応した」という言葉、すごく納得できる気がしました。
どんなにありえないと思える出来事も、日にちが経てば次第に順応していくのが人間で、たとえそれが一見どんなに過酷であっても・・・新しい環境の中で最善最良の道をまた見つけることができるのも人間のような気がします。
こういうことを考えているさなかに出生前診断の話題がニュースを賑わせて、わたしはこの夏、いろいろと考え込んでしまいました。
簡単にひとことで決められるような問題ではありませんがこの「出生前診断」にはいろいろと引っ掛かりを感じます。
それは病名は違いますが、オトートと「遺伝子の異常により生まれる命」という共通点を持つ病気だからかもしれません。
そんなことを日々考えていたら、またもや素敵な本に出会い、あっという間に読み切ってしまいました。
この話はまた近々。
いろいろなことを考えた夏もそろそろ帰り支度を始め、秋の気配もまだ朝晩だけだけど、少しずつ肌で感じるようになってきました。
この秋はまた少しずつ日記を書く習慣を取り戻していけたらと思っています。